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朝鮮戦争のころ。
北朝鮮と韓国の軍人が迷い込み、
アメリカの飛行機が墜落してパイロットが迷い込み。
迷い込んだところは戦いを知らないトンマッコル村(?)
笑いながら観たし、ファンタジーでよいのだが、最後が悲しい。
バンバン戦って終りなら他の映画と変わりがないではないかと。
武器をもって戦うことのバカらしさを徹底的に笑いものにしてほしかったのに残念。
期待していたのに肩透かし。
こんな硬派なテーマを、裁判など全く縁がない者が見ても、
とても分かりやすく、映画としての面白さも十分で、
2時間強の長い話をあっという間に見せてしまうことにいたくいたく感心してしまった。
裁判・司法という途方もなく難しそうなものが、これを見るととてもよくわかる。
情にはしらず、誰の見方もせず、日本の裁判制度のおかしさを衝いている
小気味良い映画だ。
同じ法律で裁いても裁判長が変わったら判決も真逆になるという不思議。
もたいまさこ演じるところの哲平の母が、「裁判は真実をきちんと見定めてくれるものだと信じていた」というような事を言うシーンがあるが国民のほとんどはそう思っている。
「話せば分かってもらえる」というこの単純なことが、こと裁判になると「はなしても話してもわかってもらえない」という事になる不可思議。
総選挙の時に最高裁判所裁判官の国民審査があるが、これなど裁判に縁のない者にはさっぱり分からない。
どんな判決をだしたかという資料はでるので、無罪をたくさんだしている裁判官がとりあえずは×をつけなくてもいいのかなと思った。
と友だちに話したら、最高裁まで上り詰めた人はダメじゃないかと言った。
それもそうだ。
主役の加瀬亮がいかにもという感じでいい雰囲気をだしている。
加害者の親族の心理というものに焦点をあてて撮った映画ははじめて見るかもしれない。
手紙で唯一つながっている糸を切って兄を捨て、殺人者の弟という呪縛から逃れて、新しい出発をしようと、住む場所を変え、仕事も変えて生活を始める。
倉庫で働いているところに、その会社の会長がやってきて、縷縷しゃべる。
「誰も被害をうけたくないから、そこから距離をとりたいと考えるのは普通の感覚だ。だから差別はなくならない。」というような事を。
差別をするのは悪いと一元的に言うのではなく、人間の心理をついているようで、なるほどと目から鱗だった。
切ったと思っていた「手紙」は実は他の人の手で繋がれていて、断念した漫才のコンビ復活で兄の収容されている刑務所に慰問に行く。
長年いだいていた兄に対する複雑な思いをふっきり、愛しい気持ちを胸に舞台に立つ。
それを合掌しながら聞いている兄の姿にたっぷりの涙がでた。
しかし、弟の学費がないからといって盗みに入るその状況設定にはどうしても納得できない。
だから進んでいく内容がずーと軽く感じられるのだ。
罪を犯すときのやむにやまれぬ思いに共感ができるというシチュエーションがほしかった。そうするともっと評価できる映画になった。
予告編を一目見た時から、とても楽しみにしていた。
歌は上手いし、ショーアップされたステージは申し分なかった。
主役をはったビヨンセ・ノウルズは若干26歳。素晴らしい肢体と歌声。
エディ・マーフィーでさえ、と言っては失礼だが歌が上手い。
プロデューサー役がRayを演じたジェイミーフォックスだった。
そろいも揃って素晴らしかった。
しかし、残念ながら知っている曲が一曲もなかったのが残念で残念で。
知っている曲が入っていたらもう一度見に行っていたはず。
4組の別れをオムニバスのような、そうでないような流れで映している。
親子、恋人2組、恋人になる前の1組。
良かったという映画通もいたが、なんで〜という感想。
悪くはないが、見たらそれで終りという映画だった。
ひとつ心に沁みたのは母を病気で亡くそうとしている子どもが、
「ボクはいい子にするから、お母さん死なないで」というシーン。
子どもというのは、親に悪いことが起きると自分のせいだと感じてしまうのだ。
雨の中で泣いているシーンに胸が詰まって泣いてしまった。
サッド・ムービー。
エルサルバドル。何度聞いてもなかなか覚えない。
どこにあるのかと地図をひらいてみて、やっと認識するという具合。
私にとってそれほど縁のない遠い国。
1980年代に実際に起こったことを、自分の体験をもとに脚本にしたという。
12歳で徴兵されるという事実。12歳といえば日本では中学1年生。義務教育も終えていない。
そのいたいけない子どもたちが、大人達の引き起こした内戦によって、
子どもが子どもらしく生きていけない。
そのことが一番の悲劇だと思う。
恋もし、勉強もし、将来に希望をもって生きたいだろうに。
アメリカの支援を受けている政府軍とゲリラが戦っている間に挟まった地域で暮らしているチャバとその家族。
家の中に銃弾が打ち込まれるという事。
想像を絶する恐怖の中での生活と12歳になったらという恐怖。
恐怖の中でその恐怖を紛らわせるためにゲリラになったおじさんが歌ってくれた歌。
悲惨な場面では涙がでないのに、歌の持っている力やおじさんの愛と勇気にどっと涙が溢れた。
映画の後、朝日新聞の記者の伊藤千尋さんの講演会があった。
今中南米の国々ではアメリカのいう事を聞いていても、何もいいことがないという事に気がついて、次々に左翼の政権が誕生しているそうだ。
翻って日本はどうだ。
相変わらずアメリカの傘下にいることを良しとしている政権がつづいている。
格差はどんどん広がり、持てる人はますます豊かに。貧しい人はそこから抜け出せないでいる。
「日本人はいためつけられても声をあげない。辛抱強い」というような事を
言われたが、私もその一人であることには間違いがないので
聞きながら複雑。
私に何ができるか。
イ・ビョンホンが出ていなければたぶん見に行っていない。
前作の「甘い生活」はやくざ世界で鼻から見る気はしなかったが…。
60年代の韓国がどうだったのか知らないが、韓国の人が見たらたぶんにノスタルジーを誘う映画になっているのだろうと想像できる。
人を好きになるということがとても爽やかに、若く、みずみずしい感覚で表現されている。
ああいう時間がもう一度戻ってこないだろうか…なんて。
軍事政権時代の反共時代で、ジョンインの父が共産党だという影響は大きく、若い二人の愛が思うようには進まない。
刑務所から出て再開するシーンは胸が痛い。
ソギョンの目の動き、指の動き一つ一つに目が行って、作品の中味より演技を見ている。やはり上手い。
せっかく再開したのに、ジョンインのほうから分かれていく。
どうしてかという詳しい心の内は表現されていないけれど、なんとなく想像は出来る。
ノンポリでボンボンでそんな男と、共産党の父をもち小さい時から苦労して生きてきた女では、この先上手くはいかないだろうと思ってしまった。
後半は必要だったのかしら…。
こんな映画ははじめてかもしれない。
時間が前に前に流れて、最後に全部つながって全容がわかるという変わった作り方。
だから頭の中で組み立て組み立てみないといけない。
リラックスしてみていられないのだが、内容はどうという事もなく、漫画チックだ。
サラーリーマンの宮田武くんがなんとも良い雰囲気。
俳優さんなのか素人なのか、ふんわりとした、上手いという訳ではなく、下手で見ていられないというでもなく、丁度良い感じ。
顔も漫画的。
内田けんじ監督・脚本
でもまだなんとなくすっきりしていない部分がある。
眠っていたのか?
監督・脚本 三原光尋
田舎の風景をみんなに見て欲しくて、ストーリをつけたのではないかと思えるような美しい映画。
風景と父の撮った村の記念写真だけを並べて見せてもらっても、
十分だったように思うが、やはりストーリーがなければ村に住む人々の心が表現できないだろう。
山から下りたことがないおばあちゃんが、写真屋が入院したと風の便りに聞いたのだろう。庭さきになった柿をもいでころころのついた買い物カートを押して見舞いにやってくる。
そのおばあちゃんの暖かい気持ちがこちらにも伝わってジーンとくる。
昔はこんな感じだったよな〜というような、古き良き時代を思い起こして、ノスタルジーに浸る。
写真屋の息子と娘に力みが感じられて、気持ちがそがれる部分もあるが、現代の子達だと思えば普通の感じなのかもしれない。
エンディングロールがボケていて、立木義浩が撮った写真が勿体なかった。きれいな環境で見られたら、小椋桂の歌と相まってこの上ないノスタルジーだったのに。
茶色の紙になにやら絵が書いてある。
日本でいう鳥獣戯画のようなイメージ。だんだんアップになって、韓国の文化が描いてあると分かる。そこにキャスト(たぶん)がハングルで出てくる。
なんて洒落たクレジットタイトルだろう。
画面はサムルノリから。
チャングやクェングァリで独特のリズムと長い紐がついた帽子をくるくると回すあの踊り。これから何が起こるんだろうと気持ちが高揚してくる。
このシーンだけをずーと見ていても私は満足なのだが…。
見終わって惜しいと言う感じは否めない。
そこら中に面白くなる素材はいっぱいあったのに、それがなんだか中途半端。
期待して見に行っただけに非常に残念だ。
王の圧制を芝居を利用していさめようとした重臣の考えは良かった。文化・芸術はそういう力も持っている。そこに力点がおかれていたらたぶんに面白い映画になっていたのではないだろうか。
綱渡りなども吹き替えがあったり、CGも使ったかもしれないが違和感はなく見せ場になっていた。
しかし、タイトルの「
王の男」が示すように王を含む3人の愛憎劇の話になった部分もあってどっちつかずのすっきりしない映画。
待ってましたと封切りの日に飛んで行った。
山田洋次監督と藤沢周平原作と言えば、私にとっては鬼に金棒の映画。
木村拓哉が少し引っかかっていたけれど、見初めて2シーン目にはもう木村拓哉はいなくて三村新之丞になっている。
脇を固める俳優たちがまたすばらしい。
桃井かおりのおせっかいおばさん、愛すべき侍の小林稔侍、哲学者風の剣の師匠緒方拳、憎たらしさ倍増の番頭・坂東三津五郎など、どれもどんぴしゃりの配役でうならせる。
特に、主役が二人と言っても言い過ぎないくらいの存在感で中間を演じている笹野高史が抜群だ。
「たそがれ清兵衛」「隠し剣鬼の爪」につづく3部作の完結編とうたわれているだけあってなるほどと思う。
それぞれに好きな作品だが、だんだん良さが増して、今回の「
武士の一分」は山田洋次さんの本領発揮で喜劇の要素がたぶんにある。
しみじみとして涙を流した後にはあははと大声で笑ってしまうような作り方。
わざとらしくない気持ちの良い、良質の笑いなのだ。
映画の隅々まで山田洋次監督の心が行き届いていて、芸術品。
新之丞が毒に当たって城から運び出されるときの雨、
加世が家を出て行くときの雷、
果し合いの時の突風が
何もそこまでしなくてもと言う雑念がはいる余地があったけれど、
それは藤沢文学の匂いを残したかったのかなとも思えて、まぁ良いかと許せる。
夫婦のお互いを思いやる愛情を見ながら、夫を大切にしようなどと思った。
終りのころもう一度見に行くだろう。きっと。
奥村さんは父と同年代で、父からはソ連の捕虜の体験も聞いていたので、い
ろいろと重ねて見た。
戦争が終わってなお中国に残留させられて、内戦で共産党軍と戦わされた。
4年間の戦闘とその後5年間の捕虜生活。
日本に帰ったのは戦争が終わって9年後の昭和29年。
自分達で勝手に志願して残ったとされ、軍人恩給は出ない。
終戦を迎えたからといって、すぐ命令系統が解除される訳ではないので、
自分達で勝手に残って戦うなどありえないと奥村さんは
当時の資料や証言者を求めて中国を訪ねて歩く。
また「今聞いておかなければもう聞く人がいなくなるんですよ」と
上官を訪ねて回わる。
その中で明らかにされる事実が映像にきちんと撮られている。
しかし、戦後保障を求めた最高裁への控訴は棄却。
この人たちの一生ってなんだったのだろうか。
兵隊に行かなかったら何をしていましたかという問いかけが重い。
靖国神社前で小野田さんに何かをといかけ、小野田さんが怒って反論するシーンがある。
同じ戦争の悲惨な体験をしてもその後の処し方が180度違う。
どんな戦争も絶対に反対だという奥村さんたちと、
あの戦争は聖戦だった、死んだ人は神になったのだと信じている人たち。
小野田さんはそんなことになっていたの?という驚き。
ルソン島のジャングルで戦争が終わって何年も、へびや草を食べて生還した人が、「あの生活はなんだったのか」「戦争とはなんだったのか」と考えた結果がこういう事なの。なんだか哀しい。
いつの時代も真実を見抜く力を持ちたいし、無知は哀しいと常々感じている。
戦争の構図がとてもよく解って「怒り」だが、こんなドキュメントを撮る
監督がいるのは「希望」だった。
「今、『故郷の香』という
中国映画をDVDでみてるけどつまらん。
中国映画の良いのがないな〜」というメールをもらった。
今まで見た
中国映画にどんなものがあるかなーと暇に任せて書き出してみると…。
(映画)
芙蓉鎮…泣いた。ビデオでも何回か見た。朝早く石畳をひたすら掃いている姿が眼に浮かぶ。文革の時代。
変臉・この櫂に手をそえて…女の子のけなげさにまたこれも泣けた。俳優の朱旭さんの演技もいい。変臉の不思議。
心の香り…朱旭の勝利。薄暗い中に立っている朱旭さんのシルエットは足が長く素敵だった。この作品にも変臉が少しでてきたような記憶が。
こころの湯…朱旭さん主演。タイトル通り、お風呂に浸かった時のように心がゆっくりと温まる。
山の郵便配達…深い山奥の険しい道を瞑目に歩く親子。美しい景色に森林浴をしたように癒される。
北京バイオリン…音楽が素晴らしかった。父の息子を思う気持ちにぐっとくる。
初恋の来た道…紅葉の美しさと、チャン・ツィイーの美しさ。われた茶碗を針金で直していたのが印象的。
あの子を探して…13歳くらいで先生になった子どものけなげなさに胸が打たれる。
さらば、わが愛・覇王別姫…文革の時代。ひどい時代だった。京劇を見てみたいと思った。
宗家の三姉妹…歴史を知らないからそうなのかと思いながらみた。
青い凧…文革の時代。あまり覚えていないが良かったという思いはある。
上海家族…変化していく時代の母と娘の話。母親に少しいらついた。もう少し、ちがう選択がありはしないかと。
活きる…女だけが一生懸命に活きているようなイメージが残る。
至福の時…予告編ですごく期待して行って、ガッカリした記憶。予告編だけで充分。
ただいま…暗かった。複雑な家族。
単騎千里を走る…高倉健さんは素敵だったけど、今ひとつ。
王様の漢方…朱旭さんの魅力だけでしょうもなかった。確か日中合同作品。
(ビデオ)
中国の小さなお針子…これも文革の時代。
ションヤンの酒家…ションヤンの生きかたには共感する。
紅いコーリャン…
紅夢…紅い色のイメージが。
菊豆…
再見また遭う日まで…ちょっとね。
(テレビ)
古井戸…ずいぶん昔にみたけれど、瞑目な男がひたすら井戸を掘っている。なんだか知らないけれど印象深い。
性同一性障害の主人公、ブリーに品と自尊心があり、全体に押さえた表現でとてもいい感じの
トランス・アメリカ。
男だったころに出来た子どもが留置所に居ると分かって、息子を受けだしに行く。息子は父親とは知らず、アメリカ横断の二人旅になる。
いろいろ困った息子でも、押し付けがましくなく自分の思うところを伝えていく。
仕事にたいする夢でも日常の些細なことでも…。
そのさじ加減が心地良い。
着替えのシーンや立ってオシッコをするところなど、撮り方をまちがうと下品になってしまう場面も、いやみなく爽やかささえも感じられる。
性同一性障害は今では病気と広く認知されるようになったけれど、
本人の苦悩や親にとってはなかなか認めがたいことなど過不足なく描かれていた。
そのあたりも自然だし、孫と分かった途端のおばあちゃんの豹変ぶりもわかる気がする。
心も体も女に統一されて、生き方はますます気高くなっていくブリーと息子とのその後がハッピーな予感で終わっていく。
本当にいい映画でまた見てもいいと思える余韻に包まれている。
風呂のシーンで胸が本物みたいだと思っていたら、ブリーは女優さんだったのね。男と思ってみていたのでそう見えたけど、役になるということ、化けるってすごい。
やっぱり、役者恐るべし。
写真一枚でイタリアからはるばるオーストラリアまで嫁に来たのはいいけれど、写真は弟のもので、想像を膨らませ描いていた夢とはちがう事実を受け入れられない。
が…。
最後は兄弟二人ともそれぞれに思うところに丸く収まってハッピーエンドとなる。
二本立てでこっちの映画はお目当てではなかったので腹はたたない。
とてもいい映画だったが、時代の変化がきっちり映りこんでいて、淋しい思いが強く残ってしまった「
天空の草原のナンサ」。
遊牧民の若い夫婦と3人の子どもの家族。
自然の中で丁寧につむがれる昔ながらの伝統的な生活。
羊の放牧、その乳を絞る、チーズを作る、ゲルでの食事作りから寝るまでの生活全般。
6歳のナンサは馬に乗って羊を追って放牧も任されるし、いちばん下の子どもも、2歳くらいだろうか、見ているこちらはハラハラするような危険な状況でも好きに遊んでいる。
子どもといえども、それぞれに任された一人前の役割がきっちりある。
そして、伝説やゆたかな言い伝えも子どもたちを育てていく。
迷い込んだ家のおばあちゃんは、針の先に落とした米が乗っかるくらいの確立で人間に生まれ変わるのは難しいと諭す。
そんな中だからナンサが「前世」の話をしてもとても自然だ。
自然と遊離して暮らしている日本の同じくらいの子どもが「前世云々」などと話したらちょっと怖いだろう。
お母さんの子育ても実にいい。
手のひらをそらせて、そらせた所を噛んでごらんと言う。
「人生は近くにあっても何でも自分の思うようには行かないんだよ。」
失敗しても叱ることはしない。ただ一言、「ついていないわね。」
物は少ないけれど、執着しないし、あの心のゆとりは時間の流れ方と深い関係があるだろう。
そんな豊かな時間と暮らしぶりも時代の波に刻々と変化していく様が哀しい。
父が町で買ってきた犬のぬいぐるみやプラスチックのひしゃく。
村人が少なくなって狼を追っ払えない。
ゲルをたたんで次の村に向かう途中、選挙カーと出会うのは当にその象徴だろう。
受け入れていかなければ仕方がないだろう。同じところには留まれないのだから。ただ過ぎないようにと願う。
日本ももうこれ以上の物や便利さは求めなくていいと思うのだ。
ゲルの解体やゲル解体後の清め、チーズの作り方の丁寧な撮影、ハゲワシの襲来などモンゴルの自然と生活を見せてもらった。
映画の始まる前に馬頭琴の生演奏があった。
素敵な導入だった。
この音色がまた物悲しい思いを深める。
中間色の淡いピンク色がきれいなフィルムだった。
やはりオダギリジョーの魅力がこの映画に足を運ばせる。
母の一周忌に遅れてやってきた弟を優しく迎え入れる兄さん。
膳を囲む席で、父と弟が衝突した場面でも「まぁまぁ今日は…」とやんわりとりなす兄さん。
親から田舎のガソリンスダンドを受け継ぎ、コツコツと真面目に働いている兄さん。
そんな温和な兄さんの弟に対する嫉妬と羨望が日常では気づかないくらい心の奥深くにあって、それが一人の女性を間に挟むことで表に出てくる。
人間の心の中は他人にはわからない。
どんな人の心の中にも鬼が潜んでいるんだろうか。
鬼を出さずに過ごせるのは神の手にすくわれているのか。
嫉妬と羨望の相手に直接向かう狂気ならまだ理解しやすいが、自分に刃を向けて、間接的に苦しめるようなやり方。
つり橋で起こった事件でつり橋がゆれ、兄に対する弟の心が揺れる。
タイトル「
ゆれる」はそのままで納得。
「かもめ食堂」との2本立て。
間宮兄弟は最高に面白いと言っていた知人の言葉に期待していたが、
見始めて途端になんだか気分が悪い。
兄弟の異常に仲がいいというか、距離間の無さが気持ち悪い。
いまどきこんな兄弟がいるという事に想像がいかない。
リアリティーに欠ける。
リアリティーを追求した映画ではないのかもしれない。
異常にリズムが悪いのも気持ちが悪かった。
映画にある「リズム」というものをはじめて感じたかも知れない。
「かもめ食堂」を見た後だったので、よけいに心地の悪さが際立ったのも事実だろう。
このまま見ていると「かもめ食堂」の感動に傷がつきそう(?)で、30分で会場を出てしまった。
最後までみるとまた違った感想かも知れないが…。
「間宮兄弟」を絶賛して2回も見に行った知人は、実は「かもめ食堂」はだめだったらしい。
人間はこうも感性がちがうのだということをまざまざと感じさせて面白い。
この「
かもめ食堂」をみてノルウェーに家族旅行に行った知人がいる。
紗幕をかけたような海と空と船とかもめと…。
その風景を見たとき、「あぁ行って見たい」とそういう気持ちになる。
旅情を誘う風景とでも言うのだろうか。
人が多くなく、時間がゆっくりと流れているような異空間だ。
特別な物語りがあるわけではない。
ノルウェーにおむすびがメインメニューの食堂をだしたサチエさんの所に、日本からやってきたミドリさんやまさこさんがなんとなく手伝うようになって…と言った感じ。
小林聡美扮するところの、サチエさんの自然体でふんわりと人を包むような暖かさがそこに居る人を安心させてくれる。
気張っている風はないから、素のままの人間でいられる心地のよい空間ができる。
映画のもっているリズムがいい。
この心地良さにこの映画を観た人は病み付きになるのではないか。
また観てみたいと思う。あの心地の良い空間に居たいと。
先にみていた友人が、小林聡美のつけていたエプロンやブラウス、食器なんかがとても素敵と言っていた。
本当に素敵。聞いていなかったら気づかなかったかもしれないほどのさりげなさで、でも一つひとつが自己主張をしているそれらの品々。
本当に気に入ったものにだけ囲まれて生活することと、サチエのように「したくないことはしないだけです」と言い切れる生き方をしたい。
知ればフィンランドという国はなんとも素敵な国だ。
厳しい自然に培われた国民性というのだろうか。
寒いのが苦手なので住みたいとは思わないが、憧れてやまない。
「
ヴェラ・ドレイク」を先に見ていた知人が「バスタオル1枚要る」と言っていた。あれほど泣いた映画はないと…。
私には全編気分の悪い映画だった。
ずーと嫌な感じがつきまとう。
他人の不幸や災難を見過ごせないヴェラの優しさから出たことで、それに対して何も言えないが、でももう少し利口であって欲しかったと思いながら見た。
堕胎は即犯罪という時代とキリスト教の国。
ヴェラにも罪の意識はあっただろう。
「いつも困っている女性を助けている」と思ってしていたのならやはり違和感を感じる。葛藤があったはずだ。
お金のある人はその時代でも上手くかいくぐり、医者の手をかりて手術している。
ヴェラに橋渡しをしていた女もちゃっかりマージをとり、罪に問われることはない。
妊娠させた男も何の痛みも感じることはない。
いつも女性だけの問題にされてきた。
ヴェラが逮捕されても、家族がまだ機能するその優しさにはやはり心が動かされる。娘の婚約者が「最高のクリスマスでした。ありがとう。」というシーンはグッとくる。
ヴェラを演じた女優の圧倒的な真実味。
罪を夫に告白する時のあのささやきは「そうか〜。こういう言い方になるのか」とうなされた。
女優、恐るべし。
オダギリ・ジョーが見たくて行った。
湯布院映画祭でみた「スクラップ・ヘブン」。暴力で復讐するというもので内容はひどかったが、オダギリ・ジョーの演技が光っていた。
それ以来気になる俳優で、「メゾンドヒミコ」での役柄もはまっていて、色気があった。
さて今回は、アメリカの砂漠地帯を旅する哲平とパキスタンから妻を捜しに来たアリ、アメリカ人女性サラの3人が主な登場人物。
監督が日本人とはいえ、オールアメリカロケ、全編英語。
台詞も極端に少ない。
見終わって「ン?。誰かとこの感想をしゃべりたいな」と思いながら出ていたら、神の思し召し、友だちに出あった。
良かったとも悪かったともどうとも言えない映画だったというのは一致した。
一つ感じたのは砂漠のど真ん中、月明かりもない真っ暗な中に哲平が置き去りにされるシーンがある。
こんな時、人間は本当に小さな者でどんな人とでも助け合わないと生きていけないなぁという事。
もう一つは砂漠地帯を車で行けども行けども、画面上ではちっとも進んでいないシーン。
新幹線や飛行機でどこにでもピュッと行ける日常があるので、何でもできると感違いしているが、実はなんと人間は小さくて、自然は大きいかということを画面を通じて痛いほど感じさせてくれた。
友だちはこの映画を若いときにみたらどうだろうと言った。
私たちの年齢では自然にたいして敬虔な気持ちになるが、若いときならどうなんだろう。自然を前に「やってやる」と言うような前向きなエネルギーをもらうんだろうか。
英語のオダギリ・ジョーもいい。
たくさんの賞に輝いている「
亀も空を飛ぶ」。
なるほど、賞賛にあたいする映画だと深く納得する。
これ以上悲惨なことはないだろう。
戦争の惨禍とはこういうことだと心の底のほうにどドスンとおもりを入れられたような、泣きたくても苦しくて涙が出ない、そんな映画だった。
慟哭できれば楽になれただろうが、一筋の涙も流れず、そして後々までずーっと後を引く映画。
戦車が来て、撃ちあいをして、人がいっぱい死んで…。
それも悲惨。
でも、この映画の中の少女やその兄のかかえている辛さは、戦争の悲惨さの最たるものではないか。
見る者にその事を頭と心の丁度真ん中あたりで感じさせてくれる。
ハリネズミは愛し合えばお互いに針が刺さって傷つけあうとか。
真偽の程は分からないが、少女とその子どもの親子関係はハリネズミの愛しあう関係に似ていないか。
敵の兵隊に犯されてできた目の見えない幼い子ども。その望まない自分の子どもを連れて、両腕のない兄と共に難民となってあちこちさまよう少女。
地雷を拾って糧にし、雨が降ればテントの中もぬかるむような環境で暮らしている。
歯が痛めば石油を口に含んで痛さをこらえる。
それでも辛さを抱えて生きていかなくてはいけない。
しかし、とても生きてはいけないのだ。
子どもに石をくくりつけ、池に沈めて自分は高いがけから身を投げる。
少女アグリンは苦しみから解放されてどこに行っただろうか。
内容は重いが、とてもきれいな映画だった。
空気が違うのか、澄んで透明感のある画面でこころが癒される。
子どもたちも悲惨な状況の中にいると思えないくらい、元気でユーモアもあってそして魂が大人だ。
魂が大人という事に涙が出る。
子どもが子どもらしく生きられない。
それが戦争だ。
ブロードウェイでロングラン上演のミュージカル「RENT」を映画にしたもの。
「映画か音楽かはっきりして」とこの間みたオペラ映画「魔笛」の感想をこう書いた。
今日はその舌の根も乾かないうちに、前言をひっくり返そう。
始まりは客席が空の舞台に8人の俳優達が並び「52万2600ミニッツ♪〜」と歌いだす。そのハーモニーに鳥肌がたつ。
見にきて良かった〜という実感とともに身体でリズムを刻んでいる。
ナマだったらと思わないでもないが、字幕もしっかり読めて、アップもあって映画だからよかったのだと思えてくる。
ニューヨークのダウンタウン。エイズやドラッグ。
死が身近にあって明るい話ではないが今日を精一杯生きようと歌う。
その内容については肌感覚がないので遠い感じがするが、音楽のシャワーを浴びてとても心地がいい。
ネットで調べると、ちょうど日本公演があるではないか。
行きたい!!まだチケットがある?
人間魚雷といわれた「回天」の詳細な仕組みや操作、乗り組み方、出撃の仕方に時間を割いて見せた映画「
出口のない海」。
映画を見ながら、良くこんな映画がとれたなぁと変なところで感心している。
制作費何億円もかけて創る映画もたくさんあるので、このくらいのセットを作るくらいはなんともないのかも知れないが、その仕組みの復元は大変だったろうと想像する。
それにしてもお粗末な乗り物で、出撃に際して何度も故障し失敗している。
そんなもろいもので敵艦を攻撃できると誰が本気で考えただろうか。
海の中、そして狭い魚雷の中。一度扉を閉められたら、中からは決して開けられない仕組み。戦争も末期。万作尽きて最後のあがき。
なんという非人間的な武器か。
戦争そのものが非人間的だから、それを問うほうがおかしいが…。
出撃が決まり、実家に帰って父にそれを報告するシーン。
(父)敵を見たことがあるのか?国ってなんだ?
の台詞に泣けた。
脚本の山田洋次さんの思いをそこに見る思いがしたからだ。
国ってなんだろう。
ひとり一人の個人があって家族があって、地域があってはじめて国が出来る。国が先にありきという事はない。
並木が回天の中で書いた手紙。
柿の美しさや海の細波の美しさを感じて云々は、
それは「今ある幸せを、一瞬一瞬を噛み締めて生きて欲しい」という願いに他ならない。
今あることの幸せ、生かされている今に感謝をしつつ…。
チラシを見た時から行く気は全くなかったが、
知り合いが行ったと言うので感想を聞いた。
良かったとか感動したとかはなかったが、奥が深い、音楽が好きな人ならいいかもという事だった。
見てみないことにはなんとも言えないのでこれも何かの縁、見てみよう。
画面が小さい。30年前の作品でやはり色彩が古臭い感じがする。
前半は映像と音楽が一緒にならず、「ナマだったらどんなにいいだろう」「タミーノの顔がもっと違っていたら」とそんなことばかり考えていた。
「歓びを歌にのせて」を見た時も、主役のダニエルの顔が好きではなかった。私にはスエーデン人の顔がダメらしい。
後半、パミーナのお父さんのバリトンが響いてからは画面と音楽が一つになってがぜん入りこんだ。音楽が心に届くようになった。バリトンが好きなのだ。
30年前、スエーデンのテレビ局の50周年の企画でテレビ映画として制作されたとか。モーツアルト生誕250年の記念に今回上映が企画されたようだが、「テレビ映画を2500円もとってみせるか」と文句をいいたくなる。
オペラをそのまま映画にした試みは映像も音楽もどちらも殺している。
音楽はやはりナマで。
死ぬまでには一度本格的なオペラを見てみたい。
子どもの勝利!。
守っていると思っていると実は子どもからしっかり守られている。
子どもは大人が思っている以上に大人だ。
感情がぐずぐずにならない程度に理性をもって、親が子どもを思う気持ち、
子どもが親を思う気持ちが行き交って心地が良い映画だった。
でも私はあの親のようには育てられないだろうなと思いながら見た。
嘘をつく想像力と根気がないからだ。
山口に実在する盲で聾の女性をモデルにして、山口の映画センターが企画制作した映画。中山節夫監督、主演小林綾子。
「ヘレンケラーを知っていますか」というタイトルは的を射ている。
ヘレンケラーは実に良く知られているし、知っている。
けれど身近に盲で聾の人がいるなどと想像しなかった。
想像力の欠如と言われればそれまでだ。
主人公北崎絹子は20歳で失明、その後失聴。盲学校に入るが、聴覚も無い絹子の受け入れは渋られた。
盲学校、聾学校というのはあるが盲聾の生徒の受入先は無いのだ。
体を触られて初めて人とのコミュニケーションがとれる。
「私の孤独がわかりますか?」という絹子の問いかけに私は答えられない。
どうやっても想像のつかない世界。
別れた夫が絹子にお別れを言うために街角で出会う。
付き添っているお母さんは、自分の友だちに会ったことにしてくれとつじつまを合わせるが絹子は感づいて涙するシーンがある。
耳が聞こえないということは気配も感じないということだと思うのだが、
見えたり、聞こえたりすることだけが「わかる」ことではない。
その人の体温や息づかいを体全体で感じるのだ。
事ほどさように人間の能力は素晴らしいのに、いかに何も使っていないか。
閉じこもりでリストカットを繰り返す少年が絹子と出会い、元気を取り戻していくが、それはよ〜くわかる。
絹子に接することは命そのものに触れることだから。
「みんなちがってみんないい。」
そのことを自覚して、私にできることはなんだろうと考える。
認知症の話はなんとなく行く先が知れて、あまり見たいと思う作品ではなかったが、
若年性、働き盛りの男の物語りとしては新しい発見もあった。
病気とわかった時にその役職で辞めておけば、退職金もずいぶん違っただろうに、娘の結婚式までは働くお父さんでいたかったという。
お父さんは働くことでしか家族に寄ってたっていないから無理からぬことだろう。
が、家計を預かるものとしては今後多大な出費も予想される訳で、そこのところ、勝っ手に決めてほしく無かったと私なら思う。
しかしこの妻は違う。
夫が企業戦士のときも、病気になった時もいつも一人で必死に家族を支えている。子どもだって出てこない。
こんなの奇麗事に過ぎないといわれても仕方が無い。
枝実子がお金が必要になって友達に仕事を頼むとき、
渡辺えり子の言う台詞が効いている。ここに唯一リアリティがあった。
遠藤憲一が上司役で出ていた。
あの声。本当にしびれる。
それだけでこの映画は観る価値があった。
上等の喜劇を見た。「
花よりもなほ」だ。
おかしくて、おかしくて声を出して笑った。
周りにもっと客が詰まっていたら遠慮せずにもっと大笑い出来たのに、
それが残念だ。
犬でも平気で喰らう長屋の人々の逞しさ。
腹がへるからお犬様などと言ってはおれぬ。
しかも自分達だけで食うなどという野暮なことはしない。
お店料を取立てにきた大家にもちゃんと振る舞う。
同罪なので言いつけも出来ないという一石二鳥。
なんという知恵者の集まりか。
でも誰もそれを意識してやっていないので本物。
「朝だ!」「夜だ!」と日の明けと暮れに異常に興味をしめす
少し足りない男も普通に仲間に入れてもらっている。
貧しいから力を合わせないと生きられないという事を
皆肌で知っている暮らしぶり。
青木宗左衛門に向かって「二本の刀を差しているのがそんなに偉いか?」
「田舎のだんごのくしは3本刺している」
というようなくだりがあっておかしくて深い。
「侍は何も生み出さない。そんなに偉そうぶるな」
などという台詞もきいている。
戦わずして勝つ方法がいろいろ有る事を、子どもの喧嘩になぞらえて
見せている。大の大人のあだ討ちのなんと愚かなことか。
そこで圧巻はあだ討ちを芝居で貫徹するくだりだ。
芝居が持つ力をまざまざと見せつけておかしいと同時に拍手拍手。
ただ一つ残念だったことは、長屋のセットが最初に映し出された時、
人がすんでいる気配が全く感じられなかった。
セットとしてしか存在していなかったのが、なんとも残念だ。
セットに息吹をどうやったら与えられるか考えて欲しい。
リアリティの問題。
途中まで、映画はあのセットで死んででしまった。
大学生、ゾフィー・ショル。
1943年、ヒットラーの恐怖政治の真っ只中、ヒットラー打倒のビラを大学校内で配り、捕らえられて処刑されるまでの最後の5日間。
実話を基につくられたドイツ映画。
見始めてから終るまであっという間。
息をつく間も無いというが、息が出来ない。
“確固とした思想、命と引き換えにできる思想、はどうやってつくられるのか”そればかり考えていた。
21歳と言う若さ。年齢や経験ではない。
考えて、行動して、また考えて、そして確固とした思想が形作られていく。
考えることも行動することもしなければ思想など生まれようがない。
枝葉を落とした、骨太の幹だけの様な映画に圧倒された。
ゾフィー・ショルを演じた女優の演技とも思えない演技。
いつも冷静に対応しているように見えながら、気は激しく動転している様子がトイレに駆け込んで深い呼吸をするところで、やはりそうだろうと納得する。
同じく、即刻処刑が決まり、その激しい苦悩の様子が房に帰った時の腹からのうめき声に表された。
ゾフィーの恐怖を追体験するシーンだ。
「ヒットラー〜最後の12日間〜」に出てきたタイピストが
ラストで「知ろうとしなかったことが罪だった」というような事を言ったが、
このゾフィーの事を後に知ってのことだったとか。
なるほど、同じ年で同じ時代を生きても白と黒のようにちがう人生。
映画をいろいろ観て行く事で、つながっていく面白さを感じる。
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